東久邇宮国際文化褒賞の由来と適格要件
適格要件(平成28年8月改訂)
・ | 政財官学の各界において、日本国あるいは国際機関の根幹に携わり貢献された個人・法人・団体 |
・ | 科学技術分野における発明・発見で優れた功績をあげた個人・法人・団体 |
・ | 学術分野にとどまらず、先端技術を開発・実用化して著しい実績をあげた企業の経営者または個人・法人・団体 |
・ | 文学、美術、音楽・芸能などの芸術分野で顕著な功績をあげた個人・法人・団体 |
・ | 現在・過去を問わず、ヒット商品の創造や企画興行を通して著しく大衆文化を高めた 企業の経営者または個人・法人・団体 |
・ | 知財の重要性を深く認識し、社内に特許管理士、著作権管理士を雇用または育成して いる企業の経営者または個人・法人・団体 |
・ | 今現在、既に著作権又は特許などの権利を所有し、それら知財が社会的に高く評価されている企業の経営者または個人・法人・団体 |
・ | 企業活動における改善提案で、安全性や生産性の向上、環境負荷の低減など、顕著な 功績を挙げた職場指導者または経営者・法人・団体 |
・ | ボランティア活動等で、地域の福祉・教育の発展向上など人道的・社会的に顕著な実績をあげた団体または個人・法人 |
・ | 世界的な課題である地球環境の再生、都市の活性化、農地の創生、また貧困の撲滅などの分野で顕著な功績をあげた企業の経営者または個人・法人・団体 |
・ | 女性の登用と昇進、能力開化・開発を積極的に推進し顕著な実績をあげた企業の経営者または法人 |
・ | 上記要件に該当する物故者 |
東久邇宮国際文化褒賞の由来
以下は、本褒賞の母体である「東久邇宮記念賞」・「東久邇宮文化褒賞」設立のきっかけとなった、東久邇盛厚(ひがしくに・もりひろ)殿下および、発明学会創設者であり東久邇宮記念会の名誉会長でもあられた豊澤豊雄(とよさわ・とよお)との出会いのエピソード、そして理念と理想を共にするお二人が、発明学会を通して親交を深めていくご様子です。なお、東久邇盛厚殿下の略歴および東久邇宮家の由来等については下記関連ページをご参照ください。
- 東久邇盛厚殿下との出会い
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左の写真は、右端の赤で囲まれたお方が東久邇盛厚殿下、左端が 社団法人発明学会の創設者である豊澤豊雄会長です。 昭和38年(1963年)9月に共通のご友人の結婚披露宴に招かれた時のワンショットです。
この時のご友人の計らいが、運命的な出会いとなり、後に東久邇宮文化褒賞が誕生することとなりました。
左の写真は、社団法人発明学会の演壇で祝辞を述べられる東久邇盛厚殿下です。殿下には発明学会の名誉総裁にご就任していただきました。
豊澤名誉会長(前列左)の案内にて、発明作品展をご見学される東久邇盛厚殿下(前列中央)と夫人の佳子様(前列右)。
東久邇盛厚殿下と佳子夫人のお二人の写真。殿下は前妻の照宮成子内親王の遺影を両手に抱えてご出席されました。
次に、豊沢名誉会長が私たちに語られた、東久邇盛厚殿下との親交および顕彰事業立ち上げまでの回想です。殿下がこれらの賞にどのような思い、願いを抱かれていたのかが深くご理解いただけるかと思います。
- 東久邇宮文化褒賞の創設に至るまで 豊澤豊雄 名誉会長(写真)
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昭和38年に社団法人発明学会は設立されますが、豊澤会長と意気投合した東久邇盛厚殿下は発明学会の名誉総裁を引き受けられることとなり以降も発明に関しての二人の親交は続いていきました。
東久邇盛厚殿下は昭和44年(1969年)51歳でご病気のため亡くなられますが、病床に呼ばれた豊澤発明学会会長は、これまでに殿下の発明思想の普及に努め、発明人口を増やしてきたことへ感謝の言葉を頂きました。
ここで、東久邇宮盛厚殿下の発明思想をご紹介いたします。
「発明には、上下の貴賎の別はない。小発明ほど尊い。ノーベル賞を百とるより、国民一人一人の小発明が大切だ。うまいみそ汁を考えた人には文化勲章を与えよ」
「努力を讃えることで、国民に『夢・希望・勇気・やる気・元気・自信・誇り』を持たせよ」
そして、晩年の病床で豊澤会長と吉村靖弘(現東久邇宮記念会会長)を招いて直々に語られたのが次のようなお言葉です。
「わが家の名と財産を使ってよいから、大小発明や、ユニークな善事につくされた方に記念賞を出して、顕彰してほしい」
一層の発明人口の増加と、大小を問わず発明を尊ぶ思想を託したいというこのお言葉は、殿下の遺言として豊澤会長と吉村氏へ伝えられ、その後、殿下の名を掲げ、発明思想の普及・実現に尽くしてくれた有名・無名の人々に広く記念賞を出してその功績を称える、新たな顕彰事業を始める上での大きな心の礎(いしずえ)となりました。
これら殿下のお言葉や志に共鳴し、実現させたのが「東久邇宮記念賞(国内褒賞)」です。殿下が亡くなって5年後、昭和49年(1974年)のことでした。当時の科学技術庁(1956~2001)の中に褒賞クラブを作りそこを母体として、豊澤会長と吉村氏二人の尽力で漸次発展させ、最終的には科学技術庁が廃止されるまでの35年間存続し、そこから1,000名を超える受賞者が誕生しました。
2002年にはNPO法人発明知的財産研究会を豊澤豊雄が設立、本顕彰事業の新たな母体としました。
東久邇記念賞授与式で佳子夫人と豊澤会長が並ばれている写真。夫人には東久邇宮記念会の名誉顧問にご就任いただきました。
東久邇記念賞授与式で賞状を受賞者に手渡す佳子夫人。
続いて、東久邇宮記念会の現会長である吉村靖弘(よしむら・やすひろ)氏が語る顕彰事業の国際化、「東久邇宮国際文化褒賞」設立に向けてのエピソードです。
- 東久邇宮国際文化褒賞-顕彰事業の国際化へ向けて 東久邇宮記念会会長 吉村靖弘(写真)
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2010年(平成22年)2月11日、豊澤豊雄東久邇宮記念会初代会長が102歳で亡くなられましたが、生前に私(吉村)と明川文保氏を呼び、次のように話をされました。
「国内の顕彰事業は私が生きている間に形が出来た。今後は世界へ事業を拡げていって欲しい。東久邇宮盛厚殿下の想いは日本に留まらず、世界、人類へと伝わっていくべきものだ…」
現在、その高き遺志を引き継ぐべく、二代目会長として「東久邇宮国際文化褒賞」の設立など、顕彰事業の国際化へ向けて全力を傾けています。おかげ様で、 平成26年にはブラジルを基点に南米支部が開設されることとなり、当顕彰事業が世界に広がる動きも見えてまいりました。これをきっかけに、日本と世界の発展に貢献する多くの若者たちの夢と希望と目標になれるよう、分野を問わず優れた才能と不断の努力を発掘・評価し、この褒賞を以って社会的に賞賛していきたいと考えています。