東久邇宮家のご紹介

東久邇宮家の本家である久邇宮家は、盛厚王の祖父にあたる久邇宮朝彦親王が1875年(明治8年)起こした宮家で、朝彦親王は伏見宮家20代当主邦家親王の四男として誕生した。
 伏見宮家は、江戸時代後期の4大宮家(伏見、桂、有栖川、閑院)の中でも最も古く、その起源は南北朝時代にまでさかのぼる。
当時の宮家のならわしにより8歳で出家、14歳の時には奈良一条院の院主となると同時に孝明天皇の父である仁孝天皇の養子となる。そのため、朝彦親王は血縁は無いに等しいが、孝明天皇の兄、明治天皇の伯父にあたる。幕末の政治的動乱の時期、7歳上の朝彦親王は孝明天皇から厚い信頼を寄せられており、異例中の異例として孝明天皇の命で還俗し、最初中川宮と名乗った。そして、明治8年5月、久邇宮と改称、ここに久邇宮家の誕生となり、東久邇宮家へと続いていくこととなる。
 東久邇宮内閣集合写真 / 最前列に稔彦王 東久邇宮家は、久邇宮朝彦親王の第九王子である稔彦王が創立した宮で、明治天皇の第九皇女との結婚により創設となった。
稔彦王はフランスに7年間も留学し、政治家や芸術家と親交を深めるなど国際的な視野を持つ一方、閉鎖的な宮家制度をあまり好まれなかった。ポツダム宣言受諾後の3日後にあたる1945年8月17日、史上初の皇族総理大臣(第43代)となり、国内外に展開する現地日本師団の武装解除に皇族を勅使として派遣するなど、難しい終戦直後に内閣を組閣し、大きな事件もなく日本の終戦を導いた。
ダミー画像 東久邇宮家は、1947年10月14日GHQの指令による皇籍離脱まで存続した。稔彦王は1990年に亡くなるまでの102年の生涯に4人の王子をもうけ、盛厚王は稔彦王の第一男子として1917年5月6日誕生した。
東久邇盛厚王は、学習院、陸軍士官学校を経て、1939年には陸軍将校としてノモンハン事件等の戦場に着任している。
※写真はフィリピンで撮影。


 

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